現代社会は結果重視の社会だ。学校に入ったらテストでいい点を取るために、受験で志望校に受かるために必死に勉強する。就職、会社に入ってからも続く。大体の仕事はある程度の成果を求められる。今の社会は、常に結果に囚われている。そして常に私たちは極度のプレッシャーとストレスを感じている。結果を出さなければ意味がないし、人として認めてもらえない時も少なくはない。
社会がこういった傾向にあるから、人は最も効率的な方法で結果を出すことに執着しだす。インターネットには結果をいち早く出すための方法が溢れている。なかにはプロセスなんてどうでもいいから、とにかく結果を出したいなんてケースも少なくはない。
私は最近その考え方に虚しさを覚えるようになった。私は今までとにかく良い結果、成果が残せれば途中の過程はどうでもいいと思ってた。振り返ってみると最初にそう考えるようになったのは、中学生の時だった。一般的に中学生になると、高校や大学その先の進路を真剣に考え出す頃だ。わたしはその時先のことをよく考えるタイプだったので、中一の時から行きたい高校も決まっていたし、推薦でその高校に入れるということを知っていた。推薦入試は筆記試験が無く、面接と小論文のみだし一般入試よりも早く合格が出来るので私はこの方法で第一志望の高校に入ろうと中一の時から決めていた。そして私はそれを果たすために最低限の努力でそれを達成しようと考えた。とりあえず内申点が良くなければいけなかったので、テストのための勉強は必死にした。
私はあまり社交的ではなく、学校もつまらないと思っていたので友達を積極的に作ろうとはしなかったし、学校の行事なども時間の無駄だし退屈だと思うことが多かった。だから毎日授業と部活をただこなすだけの日々で、ずっと時が過ぎるのをひたすら待っていた。そして中三になって、入試の時期になり三者面談の時がやって来た。内申点だけは良かったが、特に学級委員や生徒会役員を務めたこともなかったので推薦を受ける意思があると担任に伝えたとき、無理ではないかということを暗に示された。しかし自分は三年間をこのためだけに犠牲にしてきたつもりだったので、受けようという意思は揺らがなかった。そして受験が終わり、合格発表の日が来た。結果は合格だった、自分でも信じられないくらい喜びを感じ、今まで犠牲にしてきた全てが報われたような気がした。
しかし今思い返してみると、少し違う感覚になる。もちろん自分の計画通りすんなり合格できたことは自分にとって、とてつもない成果だ。でも学校生活の中でその時にしかできない事をしたり、その時間を楽しんでいたかと言われたら少し空白のようなものが心に残った。あの時もっと同級生と積極的に関わっていればな、気になる人に話しかけてみたらな、なんて感情が出てきた。完全に目的に執着していた。
そして今考えるのは、あながち、今が楽しければそれでいい、は間違いじゃないのかもしれない。人間は今という時間しか生きられない。何かを達成したときはその時はその結果に狂喜乱舞するかもしれないが、それはひと時の副産物だ。そしてよく考えてみたら人生はプロセスそのものだ。大切なのは、ある一定の生きている時間の中にどれだけ色々な経験が出来るかどれだけ豊かな感情が味わえるかであって、どれだけすごい偉業を何個達成したかではない(もしかしたらそういう価値観もあるかもしれないが)。